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文章は司さんです→pixiv
奇譚に収録予定です
 さる領地の一人娘の冷姫が、ある時、世話役たち共々怪異に見舞われた。死人(しびと)のように肌を白くして臥せった幼い姫は、夜な夜な悲鳴のような声を上げて苦しんだ。霊験あらたかな高僧の加持祈祷もいっかな効果をなさず、このままでは長くはないと人々は口々に噂した。そのようなところに、旅の雲水がやってきた。雲水は姫の世話役たちの怪異のありさまをぴたりと言い当て、瞬きのあいだに祓ってみせた。世話役たちはぜひに姫様もお救いくださいと頼み込んだ。雲水は言葉少なに引き受けて、やはり怪異のありさまを言い当てて、拳をふるって姫を救った。世話役たちは姫の命の恩人を盛大にもてなし、退魔の腕を見込んでぜひに領地にとどまってほしいと願ったが、雲水はなすべきことがあると言って辞した。世話役たちは残念がったが、無理にとどめることはせず、せめてもと雲水に路銀や旅装束、刀を渡した。雲水は渋々ながらに受け取ると、領地を去った。そのように伝えられている。









 奏たち一行は、禄の「嫌な気配が、村ではない方角からする」という言葉で、あやかしの村へとは続かぬ道を歩いていた。正法院奏は世を乱し人に害を及ぼすあやかしを討滅するのが役目であったし、帝威猛黒は強いあやかしを一つでも屠って己の強さを世に知らしめたかったし、光来禄はよからぬ気配とよからぬ物事を見逃すようなことはしなかった。一つの川といくつかの山を越えた先の峠道に差し掛かり、少しばかりの休息のすべく茶店に立ち寄り、茶の一杯も求めようとすると、茶店の先客である侍が一人、鋭い目でもって奏を睨むではないか。やせぎすな侍の剣呑な顔立ちと、使い込まれた刀とが相まって、物騒な様子この上ない。すわ争いの種がやってきたのかと嬉しげにした猛黒が身構えるよりも早く、侍は奏の腕をしっかと掴んだ。

「その顔、出で立ち、何よりもその刀だ、覚えているぞ、覚えているとも。貴君は我らが主、冷姫様を救った雲水の少年だな。立派になったことだ。おお、これもまた巡り合せか、なんという良運か」

 侍の物言いに怪訝な顔をした奏であるが、侍はまるでお構いなしに奏の腕を引っ張った。「是非にとも冷姫様にお会いしてくれ。我らではこの有様はいかようにもできぬ、かつてのように貴君の手をお借りしたいのだ」

 あれよあれよという間に三人は山の中の領地へと招かれ、領主の館へと通されて、領主の前に座っていた。領主の冷姫は奏を見て、懐かしげに微笑んだ。

「退魔師殿、お久しゅう。私を振って出た旅で、お役目は果たせておいでですか?」

 退魔師として旅に出てすぐの頃に立ち寄った土地と、十数年前にあやかしに脅かされていた人々だとやっと思い出した奏は、神妙に頭を垂れる。「かつての不調法、お許しいただきたい。我が役目は天命、破ることはできません」

「判っております。だからこそ、我々は今こうして退魔師殿を再び頼るのです。……陽光(あきみつ)や」

 冷姫の傍らに控えるご意見番役の赤烏陽光(せきうあきみつ)は、領地の地図を広げてみせた。いくつもの印がつけられている地図を覗き込んだ奏たちに、陽光はよろしいか、と前置いた。曰く、かれこれふた月ほど前から、井戸の水が赤く色づき始めた。はじめは一つの井戸だけで、ほんのりと赤みがかかっただけであったが、少しずつ赤く黒くなり、奇妙な匂いまでするようになり、とうとう水が泥のように黒く澱んですっかり使えぬ井戸となってしまった。一つの井戸が汚れきると、次は別の井戸が同じようになった。これは奇妙と水を調べると、いくら濾してもきれいにならず、井戸を調べても無事である。やがて井戸のほとんどが使えなくなり、川の水を汲まねばならぬと川にゆけば、こちらもやはり赤くなりつつあった。すわ、まさか源流たる湖に何かあったのではと山に入れば、湖にはあやかしがいた。あやかしは強く、調べに行った者たちのほとんどが帰ってこなかった。手をこまねいているわけにもいかないが、敵わぬ相手に無策で挑むほど愚かしい真似もしたくない。かくて、冷姫は手練の退魔師、願わくばかつて自分たちを救った彼の探索を命じた。

「そうして、広直が探しに行こうとした矢先、峠の茶店に貴方がいたと、そういうわけになります。さだめであるとか運であるとか、そういう不確かな言葉はあまり好まないのですが、今回ばかりは巡り合わせとか幸運だとかを信じたくもなります」

 論じると考えるでもって冷姫を支えるが生業の赤烏陽光は、眼鏡をくいと押し上げる。「お願いしたいことは単純です。冷姫様の領地に巣食ったあやかしを退治ていただきたい。民の平安を我らは望んでいるのです。謝礼はもちろんお支払いします。領地の危機をお救いくださる方をもてなさぬ無礼などいたしません」

 謝礼などいらない、と言おうとした奏を猛黒が遮った。もらえるものはもらっておこうというのが猛黒の信条である。禄はどちらかといえば奏と同じ意見であったけれど、猛黒のひと睨みに頷くにとどめた。何にせよ、あやかし退治は引き受けると決まっているので、三人はさっそくあやかしの様子はどのようなものであったかを尋ねた。沈黙していた功刃広直(くぬぎひろすぐ)は、うむと頷く。

「拙者は大工の筒井水喞(つついみずな)を伴い、水源のある西の山へと向かったのだ。水門の異常であれば、すぐさまに修繕を頼むつもりだったからな。あの山はさほどに深くないはずだが、夕暮れのように薄暗かった。足早に山道を歩いてやっとのことで水源の湖に到着し、すぐさまに調べようとしたらば、声がかかったのだ。四手八足両眼天に指すは如何、とな」

 どこからともしれぬ問いかけに誰もが周りを見渡せば、唐突に一人が倒れた。刀を払った広直の隣で、また一人が倒れる。あれよあれよと言う間にほとんどが倒れ、水辺は赤くなってしまった。そのような湖の畔に、小坊主がいつの間にかいたのだ。血染の警策をくるりと回し、にたりと笑って問うてきた。四手八足両眼天に指すは如何? 水喞の盾にされながら、広直は思わず、そのようなものは知らぬ、と叫んだ。小坊主はいかにも嬉しそうに警策をふるった。刀を持てば百の力を発揮する広直は、まるで無意識に刀でもって警策の一撃を受け止め、首を跳ね飛ばされるのを免れた。同時に察した。これは己らでどうにもならぬ手合に間違いない。姫様に委細を報告せねばと、水喞を抱えて遁走した。話を聞き終えた猛黒は鼻を鳴らした。「なんでえ、どういうあやかしだったのか判らねえじゃねえか」

「仕方がなかろう、長居をすれば水喞の素っ首を落とされていたろうし、拙者とて刀ともども真っ二つにされていたやもしれぬのだ。小童こそどうなのだ、何ぞか思い当たるあやかしはいないのか」

 猛黒の代わりに、禄が答えた。「問答からして、蟹のあやかしでしょう。湖の近くに、破れ寺とか廃れた社はありませんか? 蟹のあやかしは、そういう場所を棲み家にすることが多いのですが」

「あいにく、山の中にはそのようなものはない。小坊主は、そうさな、今から思えば、湖からいきなり現れたように思えた。む、では、あのあやかしは、湖を棲み家にしているというのか。なんという不埒者だ、姫様の領地を占有しようなどと」

 いきり立って鯉口に手をかけようとする広直を、陽光が止める。広直は心根の悪くない男であるが、すぐさまに抜刀したがるし、何ぞかを斬りつけたがるし、そもそも叩き斬れるか否かをものの考えの底に置いているという悪い癖がある。だからこそ、広直が斬れぬ相手と見なしたあやかしは、この領内の誰の手にも負えないし、広直が刀を抜けば誰も止められない。奏は彼らの様子に目を細めると、うっそりと口を開く。

「湖を一度、見に行けばよい。その場で退治れるならばそれでよし。容易い相手でないならば、その時に考えればよかろう」

 猛黒は実に名案だと賛同し、禄も頷いたので、広直に案内(あない)を頼んで行くことになった。湖への道は迷わなかったが、向かう道すがらに皆が皆眉をひそめる。一歩ごとに空気が重く澱んでいくからだ。奏などは澱みの肌触りに覚えがあったので、尚のこと眉根を寄せていた。やがて着いた湖は、うっすらと濁り澱んでいるし、血なまぐさい匂いも漂っている。以前やってきた時よりもひどいありさまに広直が嘆く間もなく、奏たちは身構える。すると静かであった湖はたちまち波打ち、岸辺の人間たちに襲いかかった。禄は素早く大蝦蟇の符を皆に貼り付けたので溺れるのは免れたが、奏が湖に引き込まれてしまった。薄暗く澱んだ湖の中で、奏はあやかしの村で見た小坊主と相対していた。

 澱みの中に浮かぶ小坊主こと化け蟹は、奏の顔を見ていかにも面倒そうにした。

「誰かと思えばあの時の退魔師か、なんでわざわざ顔を出しに来た。今だったらまだ見逃してやらんでもないぞ、とっとと山を降りることだ」

「お前の言葉を聞く道理はない」

「言ったな、人風情が!」

 警策を振り上げた化け蟹は、奏に襲いかかった。奏は左手で警策を受け止め握り壊そうとするのだが、化け蟹に振り払われてかなわない。なればと化け蟹を捕らえようとするも、化け蟹はせせら笑って奏の届かぬ場所へと泳いでいき、素早く回り込んで奏を打ち据えもする。相手は蟹なのだ、水の中では奏に分が悪い。せめて捕まえられればと湖底に踏ん張った奏に、突如として巨大な蟹の爪が振り下ろされた。力任せに受け流しはできたもの、禄の符が引き裂かれた。途端に水は奏に重くのしかかり、呼吸を奪う。これはいかん、と水から上がろうとする奏の胴を、爪ががっしと掴んで離さない。しまったと思うのと、これならば拳が届くと握りしめるのはほぼ同時。力を込めて爪に拳を叩き込むが、水に阻まれ法力は殆ど通らない。化け蟹は背から伸ばした爪で奏を締め上げながら、してやったりとほくそ笑む。

「俺はお前なんぞに興味はないんだ、村に入ってきた時だってとっとと出ていってくれればそれでよかったほどだ。おひいさまだって、お前を放っておけと言ったしな。だが、寝首を掻くような真似をするんなら話は別だ。このまま胴を真っ二つにするもよし、溺れ死させるもよし、どちらにしたっておひいさまには良い土産だ。ただでさえ勝手に汚れる棲み家が退魔師なんぞの血に汚れるのは嫌だが、さっさと終わらせるなら真っ二つだな。なんだ、俺の爪から逃れようってのか、馬鹿力め。無駄な真似だ、牛鬼ほどの膂力もないのに開くわけが……ぎゃあっ!」

 化け蟹は雨あられと降ってきた法力の光弾に焼かれて悶えた。暴れついでに爪を大きく振り、奏を思いきり投げ飛ばす。一息に湖の上まで飛ばされた奏は、式神に乗って空を飛ぶ禄にしっかと助け上げられる。ごほりと水を吐いた奏の足下、湖面がまたじわりと澱む。いやな風景を思い出した奏はまた眉をひそめる。ゴスペェルをまとった猛黒もやってきて、奏に毒づいた。

「てめぇだけ遊んできてるんじゃねえよ、どうせならあの澱みん中からあやかしを引きずり出してきやがれ!」

「無理を言うものじゃないよ猛黒、あやかしの領域になった水の中じゃあ、僕たちだってうまく動けるわけがないんだから。お怪我はありませんか、正法院さん」

「……なんとかな」

 岸に降り立った奏は、がくりと膝をつく。鼻を突く臭いがおぞましい風景と悪寒を呼ぶ。もう一度水を吐き出すと、慌てた広直が駆け寄ってきた。助け起こそうとするのを制し、奏はよろりと立ち上がる。踵を返して湖に向かおうとするのだが、湖から漂う澱みの臭いに足が止まった。めまいすらもしてきた。顔色を失い動けなくなった奏を抱え、禄と猛黒は広直とともに冷姫の城へと戻った。冷姫の家臣は奏の様子に大慌てで湯を沸かしたし、濁った血の臭いにも泡を食った。穢れを城の中へ入れるわけにはいかないという家臣は、それはそれはひどい有様の奏の汚れを落とすのと、珍しいものを間近で見たいという冷姫を止めるのとで大変苦労をすることになった。

 風呂に放り込まれた奏を待ちながら、禄と猛黒はううんと唸る。

「あの湖の中で戦うのは得策じゃあないね。水がすっかり穢れているし、あやかしの庭のようなものになっている。蝦蟇の符だって破られてしまえばあっという間に僕らが不利だ」

「そもそも、水が穢れきっちまってるぜ、ありゃ。ゴスペェル突っ込ませるのも気が引けた程度にはきったねえ。お前だってあの水が汚ねえから飛び込まなかったし、よくも視えねえから助けにも行けなかったんだろ。あいつが息を吐いたからやっとどこにいるのかわかったんだしな。……あいつ、よくまああんな汚ねえ水の中で長くいられたな」

「僕の符もあったろうけれど、左手の門の向こうの加護もあったろうね。でなければあっという間に穢れで動けなくなって、溺れてしまっていたんじゃないかな。そうなんだ、流れる川や井戸だったらどうにかできたかもしれないけれど、広い湖のほとんどが穢れている。まるきり不利だ」

「お前の式神の破邪の遠吠えも、ゴスペェルの遠吠えも水のせいで届かねえ。なんなら湖を干上がらせるか、邪魔な水がなくなれば戦いやすいぜ」

「そんなことをしたら村の人も、この館の人も困ってしまうよ。だいいち、干上がらせた後の始末はできるの?」

「そんなこと、お前の仕事だろ」

 少年二人のやや物騒な会話に加わるべきかを悩んでいた陽光は、ため息混じりに呟く。「しかし、一番大きな水源である湖がそんな有様とは、困りました。田畑どころか、人の口に入る水も足りなくなりそうだ。どのようにして水を行き渡らせるべきか。皆様のお力で、汚れた水をきれいにすることはできないのですか?」

「できないことはありませんが、そのためにはまず穢れの原因であるあやかしをどうにかしなければ……うん、行き渡らせる、とは?」

「私どもの館の裏手には、洞窟があるのです。洞窟の中には湧き水がありまして、この館で使う水は洞窟から引いています。とても冷たいから風呂を沸かすときなどはいたく苦労するのですが、飲み食いのために使うにはまるでよいのです。けれど、湖と比べれば少ないのは確かですから、領地まるごとを賄うにはまるで足りないのです」

「そのように貴重な水を、正法院さんに使っていただいているのですか」

「正法院様には、かつて大変お世話になりましたし、あのような有様であればまずはきれいにしませんと」

「そうか、風呂に使えるくらいには、当座の水はあるんだな。だったらやっぱりあの湖を干上がらせてやろうぜ」

 意気込む猛黒に待ったをかけたのは、風呂上がりの奏とともにやってきた冷姫である。何やら楽しげなような嬉しげなような様子に、陽光は嫌な予感を覚える。「湖を干上がらせるのではなく、洞窟にあやかしをおびき寄せてしまえばよいでしょう。退魔師殿から聞きました、湖を自在に泳ぐあやかしというのが厄介なのでしょう? 洞窟は湖とは違って狭いし、あやかしの領域とやらになっていないから、きっと退治しやすいことでしょうから」

「洞窟は貴重な水源ですよ姫様、あやかしによって汚されては、我々は干上がってしまいますよ」

「陽光や、退魔師殿はかつて、たったの一人で我々に憑いた八のあやかしを、ただの半日で調伏せしめました。こたびは退魔師殿とお仲間がお二人、あやかしは一。なれば、なんの不安がありましょうや」

 にっこり微笑む冷姫が自身の名案を覆す腹積もりはないというのも、ついでにあわよくば退魔師たちの活躍を見たいのだというのも、陽光はお見通しだった。なにせ以前退魔師に助けてもらった時の冷姫はすっかり正体をなくしており、どのようにして祓魔が行われたのかを知らないのだ。家臣たちから伝え聞くばかりの退魔師の戦いぶりを今度こそ我が目で見たいからこそ、こんな無茶なことを考えたに違いない。されど、陽光は冷姫の名案を崩すような代案など考えつかなかった。陽光は軍師ではないのだ。せめても、くれぐれも洞窟を崩さないでほしいことをお願いするくらいしかできなかった。

 かくして翌日、禄と猛黒は再び湖のほとりにいた。禄は火蜥蜴の符を出し、しかじかの印を組み、符へと力を注ぎ込む。禄の力を得た符はやがて燃え盛る炎よりも激しく輝いたので、禄は湖へと投げ込んだ。禄の手を離れた符は激しい熱を開放し、湖をすぐさまに湯へと変えた。たまらないのは化け蟹だ。不意に湯になった湖にすわ何事かと血相を変え、文字通りに泡を食って湯を水に戻そうとするもの、水面から爆弾が投げ込まれてしまってうまくいかない。ゴスペェルと合身した猛黒は、勝手に持ち出してきた火雷柝謹製の爆弾を笑いながら投げ込むのだ。とうとうたまらなくなった化け蟹は湯になった湖から飛び出した。飛び出した化け蟹めがけて禄は火蜥蜴の符を更に放ち、猛黒も爆弾を投げつける。化け蟹は警策で爆弾を打ち返したり、符を落としたりするのだが、いかんせん鬱陶しいし身体が熱い。これは冷えた水に入らねばならぬと周りの水気を探した化け蟹は、冷気を持った水場が近場にあると察知した。水場めがけて昼なお暗い洞窟に飛び込んだ化け蟹は、寒々しいほどの水に飛び込もうとする。しかし水には入れない。忌々しくも、破邪の力で満たされているのだ。忌々しげに顔を歪めて振り向けば、正法院奏が佇んでいる。

「おのれ、小賢しい真似を!」

 奏は答えず、左手を拳にして飛びかかる。化け蟹は警策でもって奏の拳を受け止めるも、穢れた水に阻まれぬ退魔破邪の力はたやすく警策を打ち砕いた。そこに禄と猛黒もやってきて、霊弾と銃弾を撃ち込んだ。二人の攻撃にたたらを踏んだ化け蟹は破邪の水に足を入れてしまい、ぎゃっと呻く。そこに飛び込んだ奏は化け蟹の首を掴んで引き倒し、退魔の左手で顔を掴む。退魔の力で顔を焼かれる化け蟹は暴れもがいて奏を蹴るが、奏はまるでびくともしない。背から爪を出そうとしても、破邪の水に阻まれる。ぎりぎりと歯を食いしばった化け蟹は、心底忌々しげに叫んだ。

「ええい、この化け蟹をよくもこうまで莫迦にしてくれたな! もはや赦さぬ、八つ裂きにしてやる!」

 叫ぶと同時に、化け蟹の姿が破け弾けた。咄嗟に飛び退いた奏の目の前、ぶちぶちと音を立てて小坊主が膨らみ弾け飛び、やがて黄金の殻を持つ大きな蟹へと変じた。これこそ化け蟹の本性であった。真っ赤な爪をがちがちと鳴らして身を震わせた化け蟹は、ぎょろりと小賢しい人間たちを見下ろした。

『星映る池以来の美しく良い水場だ、このままおめおめ手放してなるものかよ! この地の連中が二度と貴様らのような者を呼び込まぬよう、見せしめにしてやる!』

 奏めがけて振り下ろされた爪は洞窟の岩を砕く。水場を崩すわけにはいかない三人が洞窟を飛び出すと、化け蟹も彼らを追って洞窟から飛び出した。火蜥蜴の符を構えた禄は再び印を結び、化け蟹へと放った。禄の手を離れた符は化け蟹の甲羅へと貼り付き、激しい熱波を吹き出した。しかし化け蟹は鬱陶しげに符を切り払い、禄へと泡を吹き付ける。禄が間髪躱してみせると、泡に触れた地面が寸の間を置いて爆裂する。ならばと猛黒が妖力の弾丸を撃ち込めば、黄金の殻に弾かれまるで効かない。にたりと笑った化け蟹は、脆弱な人間に爪をふるい、爆裂する泡を吹き付けた。奏の、禄の、猛黒の周囲が爆発し、爪でもって地面が切り裂かれた。化け蟹の乱暴な攻撃の隙間を縫って妖力の弾丸や破邪の霊力が飛び、退魔の拳がふるわれるのだが、いかんせん化け蟹の甲羅は硬いのだ。弾はまるで効果を成さず、拳も同じく意に介されることがない。これでは埒が開かぬし、消耗するばかりだ。苛立った猛黒がひときわ大きな妖力弾を放つと、化け蟹は高らかに笑って妖力を弾いた。何度やっても同じことだとばかりに爪を鳴らした化け蟹へと、奏は一跳躍。爪を蹴って顔面へと向かう。気付いた化け蟹が奏へと泡を吹く。泡にまみれた奏は爆破に見舞われるも、まるで構わずに拳をふるった。鉄塊でも殴ったような音が響き、奏は爪に捕らえられた。

『今度は逃さんぞ退魔師、まずはお前を血祭りにしてやる』

「……どうかな」

 奏の言葉に怪訝にした一瞬、禄の符が化け蟹の甲羅に貼り付いた。また破り捨ててやろうと爪をふるおうとした刹那、符は大きな羽へと変じ、螺旋となって甲羅をえぐった。なんだこれはと驚愕すると同時に、羽が爆発する。更に一枚、二枚と符が貼り付き、立て続けに爆発した。禄の山鳩の符への追い打ちで、腕に巻いた外套を爪へと変じた猛黒が猛襲をかける。狩羅茱切と同じ力を宿した爪が、山鳩の符で煤けた甲羅に一閃。甲羅が音を立ててひび割れる。信じられぬ有様に驚愕するよりも早く、爪の中の脅威を投げ捨てるべく振り上げるのだが全ては遅い。退魔の左手は化け蟹の爪を砕いていたし、奏は化け蟹の爪を蹴ってひび割れた甲羅へと一直線に突進していた。
 青白い拳がひび割れた甲羅へと一撃を与える。甲羅のひびは全身に広がり、黄金の殻が砕け散る。砕かれた甲羅の下へと退魔の力が流れ込み、化け蟹は苦悶と無念の叫びを上げて、全身を爆ぜ飛ばした。








 館の高台から遠眼鏡で退魔師たちの戦いを観ていた冷姫はいたく満足し、化け蟹の黄金の殻だの真っ赤な爪を収集したいとのたもうた。家臣たちは姫の収集癖が原因で十数年前に怪異に見舞われたのだからどうかお考え直しくださいと強く頼んだもの、ならば何事もないように封印をすればよかろうという冷姫の言葉に沈黙する他なかった。かくして邪気瘴気の出ぬように封じを施された化け蟹の殻と爪は冷姫の収集蔵に収められ、長く愛でられる運びとなった。水源全てを浄化した奏たちが出立した数日後に、化け蟹の殻からまろび出るようにして黄金の裳裾を持つ錦鯉のあやかしが現れもしたので、冷姫と家臣たちが見舞われた怪異の事々は領地の伝承として残されることになった。後の世に冷姫領奇譚と呼ばれるものである。

 冷姫は今度は奏を引き止めることはせず、代わりに謝礼をたんまり持たせた。ついで、近隣で噂される奇妙な話を教えた。領地からそう離れていない街で、女子供の行方が知れぬ事件が続いていること。同じ街の中で、女たちに限った奇妙な噂が広がっているということ。あやかしの村に関わりがあるかは判らないが、放っておくこともなかろうと、奏たちは冷姫の言う街へと向かった。

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