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司さんの作品になります。(掲載元はプライベッターなのでリンク省略)
前作の聖明さん視点。
 松炉聖明は、物心ついた時から見ている夢がある。
 長い道のりを誰かとともに歩いている。道のりは冷たく長く険しいのだが、誰かと歩いているので苦ではない。だけれども、道の中で、唐突に誰かはいなくなる。途端に、道は酷く辛くなる。足取りは重くなり、冷たさは身を切るほどの寒さとなり、行く先はすべてが夜の闇となる。何より、心が寒かった。大きく空いた胸の中を吹雪が通り抜けていき、身体が芯から冷えていく。 あまりにも辛くて苦しくて、聖明は闇に駆け出す。いなくなった誰かがいなければ、この寒さは続くと思えたからだ。聖明は新月の夜のような闇の中を探すのだが、誰かは一向に見つからない。どこだ、どこにいるんだ。聖明は誰かの名を闇に叫び、やがて目を覚ます。目を覚ました聖明は決まって手足が氷のように冷たくなっているし、心臓はねじ切れるような痛みと熱さとが渦巻いている。
 聖明は夢を見た後の苦しさを振り払うために、ずっと心身を鍛えていた。鍛えれば手足の冷たさを感じることもなく、目覚めた後に味わう強い寂寞も喪失感も、耐えられるようになっていくように思えた。そのうちに我流の拳法も編み出したし、心身も強くなった。それでも夢は見続けたし、心には冷たい寂寞が吹き抜け続けた。ともに歩いていた誰かを呼びながら探す夢は、いつか聖明の中に常にあるものになっていた。ただの夢だと切り捨てるには、夢はあまりにも長くありすぎたのだ。
 夢で呼ぶ名を、聖明は覚えていない。夢で探す姿も判らない。探す誰かが、自分にとってどのような存在であったのかも判らない。だが、夢の中の聖明は、誰かを探し回っている。冷たい風に身を切られ、前も見えぬほどの白い闇の中で、声を枯らして名を呼んでいる。伸ばした手の先にいることを祈るようにしながら、誰かを探し続けるのだ。
 同時に、聖明の中には、奇妙な想いが燻っていた。
 物心ついた時から聖明は『神』が嫌いだった。仏閣はまだしも、古今東西、神と名のつく存在を忌避する傾向がある。初詣などもっての外だし、神頼みなどという言葉は頑として否定する。自然は好きだが、自然の中に神がいるなどと言われると感情がざわめく。なぜなのかと自問すると、決まって聖明は神は奪うものであるという自答となる。神は奪う。理不尽に。唐突に。欠片も残さず奪っていく。そして、何も与えない。それが聖明の中での神だ。友人知人の信仰をみだりに否定するほど聖明は見境のない気質ではないけれど、その心中では常に神を嫌い疎んじている。何がきっかけでこんな思いを持つようになったのか、聖明は思い出せない。だが、聖明にとって神は奪い去っていくものであり、決して許せぬ存在であった。
 そのような聖明だが、日常は至って平凡だ。日々の鍛錬を欠かさずにいる以外は、一般的に学生時代を過ごし、友人を持ち、社会人として職に就き、質実剛健かつ平凡な青年として生きていた。世間に顔向けできないような真似も一度としてしたためしがなく、むしろ人の道に外れる行いを嫌い、友人知人からもユーモアのある真面目な男として受け止められていた。聖明も、自分は決して人の道から外れる男ではないと信じていた。
 ある休日に、聖明は博物館に行った。特別な展示があったわけではない。行ける距離にあるから足を向けただけだ。休日の博物館はなかなか客足が多く、展示物をじっくり見るには向かない日だった。それでも聖明はゆっくりと広い館内を見て回り、やがて大きな恐竜の化石の前にやってきた。肉食恐竜とおぼしき化石は個室が与えられており、背の高い聖明でも見上げるほどの大きさである。幸いにも、聖明の他の見物人はほとんどいない。これは見応えがあるな、と聖明はじっくりと化石を見ることにした。このような生物が闊歩していた時代とは、どのようなものだったのだろう。そんな空想をして、踵を返そうとした瞬間に、身体のすべてが動かなくなった。
 いつの間にか隣に、一人の青年が立っていた。聖明と同じように展示を見上げている。それはいい。異国の風情をまとった白磁の肌、流水のような長い髪、すらりとした手足、柘榴石のような瞳。そして、恐ろしいほどに冷たくも美しい、男とも女ともつかない顔立ち。
 息が詰まった。夢を見た朝のように手足が冷え、しかし逆に総身が炎でも飲み込んだように滾る。震える唇が名を自然に紡いで、沸き上がった激情のまま、聖明は手を伸ばして青年の手首を掴んでいた。青年はきょとん、と聖明を見た。
 正面から見た顔は、寸分違わなかった。ただ一度だけ目にした、たき火の炎に照らされた顔と同じだった。聖明はくしゃり、と笑った。
「すいと、ここにいたのか」
 氷人。氷人。久方ぶりに呼ぶ名は、喉から押し出すような声になってしまった。これでは氷人に笑われてしまうだろう。ああ、ここにいた。氷人がいる。目の前に。触れている。氷人だ。氷人だ。氷人だ! ずっと探していたんだ。あの時、氷人が突然いなくなってから、どれほど経ったのか判らない。俺はずっと探していたんだ。何度も何度も山に入って、氷人を探してたんだ。よかった、ここにいたんだな。これでもう安心だ。聖明は氷人に様々を話したかった。けれど、あまりにも積み重なった言葉が多すぎて、何から話すべきかが渋滞してしまって、何も形にならなかった。
 そして対する氷人は、きょとん、と聖明を見上げたままだった。ゆっくりと首を傾げると、
「……君は?」
 と、言った。
 ああ、この声は氷人だ。氷人に違いない。やっと見つけた。氷人! 聖明は氷人をぎゅう、と抱きしめた。まるで歯車が噛み合うように落ち着いた。服越しでもわかるひんやりとした体温と、細く見えても頑丈な身体。間違いない、氷人だ! 感極まった聖明は、不意に力を失った氷人とともに、博物館を出ていた。積もる話をするには、博物館はふさわしくないと思えた。
 聖明は氷人を自宅に連れ帰った。何を話そうか。どこから話そうか。長らく会っていなかったのだ。氷人がどうしていたかも聞きたかった。そう、あれから氷人はどうしていたのだろう? あれから。自分の前から姿を消してから。あの時、……にうばわれてから。
 聖明の心の中、瞬きの間、せっかく噛み合った歯車が歪み、軋むような音がした。その軋みは痛みと苦しみと、燃え盛るような怒りを伴って、聖明の身の内を駆け巡った。しかし、自室のソファで横たわる氷人を見れば、そんな気持ちは落ち着いた。そうとも、何を怒ることがあるだろう。氷人はここにいるのだ。何も心憂くことなど、ありはしないのだ。聖明は氷人の目覚めを待った。何を話そうか。どこから話そうか。なあ、氷人。





 


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