※忌譚収録(本では少し加筆しています)
         海が怖いと言い出した。
        
        
         海が怖いと、海が恐ろしいと。
        
        
         あんなに海が好きだった兄が、すっかり家の中に引きこもってしまった。
        
        
        
        「兄さん。外に出ないか?」
        
        「…」
        
         布団の中に潜り込んでいる兄は反応がない。
        
         ずっとこの状態だ。
        
        「兄さん…」
        
         静かに、刺激しないよう気をつけながら近づき、そっと手を添える。
        
         暖かい。
        
        「兄さん」
        
        「…旋?」
        
        「外、でよう」
        
        「…嫌、怖い…呼んでる…ずっと呼んでる…」
        
        「…」
        
         遠くで波の音がするが、それだけだ。
        
         海の見える崖の近くに家がある。親から引き継いだ家だ。兄弟共々気に入っている。
        
         少し下ればすぐ浜がある。それ以外は何も無い、人もいない、静かな場所だ。
        
        「…そうか、しかし何か口にしないと」
        
        「…旋」
        
         ぎゅうっと兄が袖を握ってくる。
        
        「…口移し、してやるから。食べてくれ?」
        
        「…ん」
        
        
        
         いつものことだ、こうやって食べさせそして
        
        
        
        「兄さん…」
        
         兄を抱く。
        
         怯え震える兄を大切に大切に…。
        
        
        
            ****
        
        
        
         海を見たくないという
        
        
         人影が、自分を呼んでいるという
        
        
         そんなことはない、といいきかせようとしても、最近暴れるようになってしまった
        
        
         お前を疑っているわけじゃない
        
        
         信じているから
        
        
         信じて欲しい
        
        
        
           ****
        
        
        
        「旋、こわい…こわい…」
        
         手で耳を塞ぎ、ナミは震えていた。
        
         もはやその目に正気の色はなく、警戒しているのかギョロギョロと周囲を見回している。
        
         旋次郎は哀れに思うし、無力な自分に苛立ちも覚えた。
        
        「声が…う、うう…!」
        
         ナミは急に立ち上がると土間へと向かう。
        
        「兄さん!?どうした!」
        
        「…死ぬ、海に行きたくないから死ぬ!!!」
        
         包丁を握り締め、自分の首へ刃を向けるナミ。
        
        「止めろ!」
        
        「あぁぁぁぁ!!!お前、邪魔する気か!お前は!!!!」
        
        「兄さん!?」
        
         まるで自分を弟だと認識していない、敵意むき出しの声だった。
        
        「死ね!死ねぇ!!!」
        
        「やめろ!兄さん!!」
        
         押さえ込もうと取っ組み合い、二人は倒れこむ。
        
        「ッぐぅ」
        
         ナミの呻き。
        
        「…あ!?」
        
         包丁の刃が、ナミの腹に潜り込んでいた。
        
        「ひっ…あ、…に、にいさ…?」
        
        「……」
        
         ごぽり、とナミは口から血を溢れさせる。
        
         びちゃりと旋次郎の胸元を汚す。
        
         不思議と綺麗な血だと思った。
        
         ナミはよろよろと、その身を起こして外へ歩む。
        
        「に、にいさ…ん…」
        
         震える足に力を混めて、旋次郎は後を追う。
        
        「兄さん!」
        
         ナミは崖の上で立ち止まり、振り返る。
        
        「…おまえを、ころそうと、した…」
        
        「それが、どうしたというんだ…おれはお前を、刺してしまった…」
        
        「…」
        
         ナミの虚ろな目は腹部に刺さったままの包丁へ向けられる。
        
         そしてそれをおもむろに引き抜き、
        
        
        
         グチッ
        
        
        
         首に刃をつきたてながら、ぐらりとゆれて崖から落ちていく。
        
        
        「あ、あぁぁぁ…アアアアアアアアアア!!!!!!!!」
        
        
        
           ****
        
        
        
         それからどうしたのか覚えていない。
        
         翌日首のないナミの死体が浜に上がっていた。
        
         頭は魚に食われてしまったのだろうか。
        
         旋次郎は死体を何故か■■■へ隠してしまった。
        
         怖かった。
        
         ただ怖かった。
        
         何もかもが怖かった。
        
        
         今は波の音も、聞こえてこない。
        
        
         聞こえてくるのは――――
        
        
        
        
        
         兄といた一室の中央に座り、ぼんやりした表情でただ座っている日々。
        
        
         何も手につかない。
        
        
         声が聞こえる。
        
        
        
        
        
         目の前に立っている女は幻覚だろうか。
        
        
        
         女の眼はまるで猛禽類のようで、鋭い眼光を向けてくる。
        
        
        
         い つ ま で
        
        
         女の口から言葉が漏れる。
        
        
        「何が」
        
        
        
         い つ ま で
        
        
        
         再び同じ言葉を発し、スッ…と天井を指差す。
        
         思わず見上げてしまう、見るのが怖いのに。
        
        
        
        
        
         天井から血が滴っている。
        
        
        「ひっ…う、あ…ウアアアアアア!!!!!」
        
        
         頭を抱えて絶叫する。
        
        
        
         そこで目が覚める。
        
        
         恐る恐る天井を見るが、染みがあるだけで血は滴っていない。
        
        
         ―――いつまで
        
        
         あの声が聞こえる。
        
        
         後ろを振り返る。
        
        
        
        
        
         恐ろしい鳥が、そこに